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映画のコトやら何やら綴りませう
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ところで、
昨日のエントリーで「仄暗い水の底から」(2001)が様々な作品からの寄せ集めと感じると書き「13日の金曜日」(1980)等を例としてあげました。が、実は見ている間中それ以上に強烈に思い出されるもう一本の映画がありました。
その作品と「仄暗い水の底から」の共通キーワードは
「水」「浴槽」「溺れた子供の幽霊」「哀しみと共感」そして「何度捨てても帰ってくる子供の持ち物」。

changeling01 「チェンジリング」(1979)
THE CHANGELING

交通事故で妻と幼い娘を一度に失ってしまった作曲家。彼は人付き合いを嫌い、一人哀しみを忘れ作曲活動に勤しむため郊外の古い屋敷に引っ越します。妻子の遺品を目に付かぬように箱に仕舞い込みようやく落ち着きを取り戻し始めた頃、屋敷の中で不思議なことが起こり始めるのです。
突然屋敷の中に響き渡るドーンドーンという何かを叩くような音。誰もいないはずの2階の浴室から聞こえる水の音。何度箱の中に戻してもいつの間にか外に出ている娘が遊んでいたボール。そして隠されていた屋根裏の小部屋で見つけたオルゴールから流れる旋律は、たった今彼が作曲したばかりの曲なのでした。
この屋敷に隠された謎を解き明かそうとする彼は、ある夜再び響き渡る音に浴室へと飛んでいきます。そこで彼が見たものは、浴槽の水の中に浮かぶ幼い少年の苦悶の表情。溺れ死のうとする少年のその腕が水の中で浴槽に何度も打ち付けられ、その音がドーンドーンと辺りに響き渡っていたのでした。
少年はかつてこの場所で殺されたのか? 誰に? 何故? そして何を訴えようとしているのか。

物語はオーソドックスな幽霊屋敷モノであり、その描写は地味です。しかし怖い。
特に何度も目の前に現れるボールをついに遠くの川へ放り込んだ主人公が屋敷に帰ってきたシーン。暗い階上へと続く階段から聞こえてくるポーンポーンという音。それはゆっくりと弾みながら階段を落ちてくる濡れたボールでした。このシーンの見事な演出も相まってのゾクリとする怖さはいまだに忘れられません。
この映画が公開された'70年代後半といえば後のスプラッターブームに続く残虐なホラー映画が全盛になりつつある頃でした。しかしその中で本作は異色とも思えるほどにオーソドックスなゴシックホラーの流れに沿って作られ、人を怖がらせるのにむやみやたらな残虐なショックシーンなど必要ではないと教えてくれた作品でもありました。

主人公は街の歴史記念館の資料からこの屋敷の記録が抹消されていることを知り、屋敷と少年に隠された秘密を解き明かそうと考えます。そして明かされる驚くべき真実とは何か。その時「チェンジリング」というタイトルの意味もまた明らかになるのです。

本作の特徴は本当に怖いホラー映画というだけではなく、その中で描かれる哀しみや優しさこそが本質部分であったと思えます。失ってしまった我が子と幽霊の少年をいつしか重ね合わせ、少年への慈しみの感情と共にその哀しみや訴えに答えてやろうとする主人公。我が通らない時の幼い子供さながらに荒れ狂うポルターガイスト現象を前にして父親のごとく一喝する主人公のシーンは、恐怖よりもむしろほほえましさすら感じる名シーンでありましょう。

主人公の作曲家に名優ジョージ・C・スコット。物語の鍵を握る老富豪にやはり名優メルヴィン・ダグラス。この二人の重厚な演技が物語をしっかりと支えます。
怖さと優しさが同居した、この作品はマイナーなのが勿体ないほどの完成度の高い傑作でありました。


ところで本作が劇場公開された時、主題歌をヒカシューが歌っているのが話題になりました。当時は日本で勝手に主題歌を作ってエンディングに流して公開ということが結構ありましたね。傑作「ナイル殺人事件」(1978)などもエンディングで流れる勝手に主題歌「ミステリー・ナイル」が非常に印象深かっただけに、歌が流れないオリジナル版を見るとどうしても物足りなく感じてしまうのが困りものであります。


ところでところで、「仄暗い水の底から」を見た後2chの実況板を覗いてみたのですが、何度も帰ってくる赤い鞄についてこんな書き込みがありました。

>343 名前:名無しさんにズームイン![sage] 投稿日:2005/11/25(金) 22:50:13 ID:viv/rXxi
>旅行先で買ったお土産をあのカバンの中に入れて
>その辺にほおって置けば、帰ったときに家に勝手に
>戻ってくるという寸法だな

ナイスアイデア!(笑)

「チェンジリング」鑑賞劇場記録:梅田・ニューOS劇場(旧)・・・だったと思います

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まぁ最近は「アッと驚くどんでん返し」と言いますか、ラストのワンアイデアだけで作られた映画って多いですね。いかに上手く観客を騙して引っ張り、いかに上手くラストでひっくり返すか、安易な企画であるだけに監督の腕が物を言うジャンルであると思います。その点昨日名前を挙げたデヴィッド・フィンチャーやシャマラン監督などは堂に入った者です。他監督の作品だと現在続編が公開中の「SAW」(2004)なども上手く作っていました。
アッと驚く予想を覆す結末。それが衝撃的なら衝撃的なほど良し。しかしヘタするとそれまで築いてきた作品世界をぶち壊すことにもなりかねない諸刃の剣。そんなジャンルです。
で、一方能力に欠ける監督が同じ事をしようとすると、まさしく取って付けたラストに観客は別の意味で唖然とすることになります。
昨夜せっかくタイトルを上げたので、そんな2作品をご紹介(笑)。

「宇宙から来たツタンカーメン」TIME WALKER(1982)

ビデオタイトルは「宇宙からのツタンカーメン」でしたかね。
私もそうですが、かつて「日曜洋画劇場」で放送され、その衝撃のラストに視聴者を唖然とさせた伝説の一作。どうにも褒めようのない凡作であるにもかかわらず、否応なく忘れ得ぬ一本となってしまった人も数知れず(笑)。

ドラマの基本は所謂「ミイラ男」物ホラーの常道に乗って展開します。王家の墓から発掘された棺がアメリカの大学の研究室に運ばれ、内部調査のためにX線を照射したところ当然ながらミイラが蘇ります。そして棺にはめ込まれていた宝石を盗んだ学生を追って夜の構内を徘徊しながら次々と殺人を繰り返していくのです。一方盗んだ学生は宝石を彼女や友人にプレゼントするのですが、宝石に触れた者はその部分から緑色の苔が生え、やがて全身が苔に覆われていくのでした。
というわけで映像はチープだし演出はどうにも冴えませんが、物語は実にオーソドックスな「ミイラ男」譚であります。もしこのまま終わっていれば平凡な出来のB級ホラーとして忘れ去られていたことでしょう。
さあ、クライマックスです(笑)。

主人公である好青年が、ついにミイラ男によって追いつめられます。とその時、突如ミイラ男の全身が光に包まれたのです。そして光の中から現れたのはグレイタイプとウルトラマンを足したようなどことなく格好の良い宇宙人だったのです!
そっ、と主人公に向けて指先を伸ばす宇宙人。この後何をすればいいのか、もちろん主人公も分かっています(笑)。主人公の人差し指も伸ばされ、感動的な音楽と共に指先と指先が触れあった次の瞬間、宇宙人は光となって空の彼方に飛び去っていったのでした。
エリオット、じゃなくて主人公は散々ぱら仲間の学生が殺されたのも忘れて微笑みを浮かべながら夜空を見上げます。なぜ宇宙人がミイラにされ(しかも生きたままか?)王家の墓に埋まっていたのか。あの苔の生える宝石は何だったのか。そんなことはもはやどうでもいいことでした。ただまったく違った種族間でも分かり合える、そのことが素晴らしい感動を生んでいたのです。
ふと、主人公は異星人と触れた指に目を落とします。その指先からは緑の苔が生え始めていました。
で、悲鳴と共にジ・エンド。

どうしてこんなオチになるのかまったく分かりません。おそらく登場人物たちにも分からないことでしょう。でもなんだか凄いモノを見たような気になるのが不思議です(笑)。
ところでこれだけの衝撃のオチを用意しているにもかかわらず、邦題でネタバレをしちゃってるのが頂けませんね。原題のTIME WALKERは(この映画にはもったいないくらい)洒落たタイトルだと思うのですが。

「ザ・ダーク」THE DARK(1979)

監督は悪名高きジョン・バッド・カードス。ところでこの映画、ものの本などでは元々トビー・フーパーが監督していて撮影も進んでいたところ、突然監督が降りたか降ろされたかでカードス監督が後を引き次いだと書いてあったりするのだけど、本当かなぁ。

とある都会の一角、公園には大勢のホームレス達がたむろする。そんな街で仕事帰りのOLなどが次々惨殺される連続殺人事件が起こります。これはおそらくホームレスの仕業だろう(ひどい決め付け(笑))と捜査を開始する警察。一方娘を殺された作家も独自に犯人を突き止めようと行動を開始。しかし必死の捜査にも関わらず、警察をあざ笑うかのように犯行は続くのです。
とまあ、ここまでは良くあるタイプの安い犯罪ホラーのパターンです。まぁ「宇宙から来たツタンカーメン」の繰り返しになりますがチープな雰囲気と酷い演出、退屈な展開にさえ目をつぶれば見れないこともありません。
さあ、クライマックスです。

さて、ついに新たな犯行がパトロール中の警官に目撃される日が来ました。て、いままで1時間以上ダラダラやっていた地道な捜査はまったく無意味?
まぁとにかく警官隊によって犯人のホームレスは廃ビルみたいなところに追いつめられていきます。ついに逮捕か。じりじりと包囲を狭めながら誰もがそう思ったとき、突如ホームレスは目から赤い怪光線を発射し始めたのです!
そう、殺人鬼の正体は宇宙人だったのです。スゲー。宇宙人が何のためにホームレスに変装してまで殺人を犯していたのか分かりませんが、もしかしたらプレデターみたいに人間狩りをしに来ていたのかもしれませんね。そのわりに夜道で女ばかり襲っていたあたりショボいプレデターですけど。
ともあれ拳銃も効かず、殺人ホームレスが目から放つ怪光線によって警官隊は次々と殺されていきます。はたしてどうなるのか―――。

ええと・・・最後はどうなったのか良く覚えていません(笑)。宇宙人は宇宙へ逃げ去っていったか、火を点けられて燃え上がったか、なんかそんなことだったと思いますが。
今回ご紹介の2本、どちらも20年くらい前に見たっきりですので記憶違いもあるかもしれませんが、そこは一つご勘弁ください。

その昔、と言っても'80年代に入った頃でしたか、まだレンタルビデオなんてものが普及してない頃、特撮映画や怪奇映画のファンにとって大変ありがたかったのが企画モノのオールナイト上映会やファンクラブ等の自主上映会でした。関西にはその頃特撮モノや怪奇モノのマニアで有名な芦屋小雁師匠が主催する「モンスターズ」というファンクラブがあり、定期的に行われる上映会では日本未公開の作品が次々上映され大層ありがたく思ったものでした。
本作も初見はこうした上映会であったと記憶します。

「水爆と深海の怪物」(1955)
IT CAME FROM BENEATH THE SEA

と言ってもその頃の上映会では輸入盤の8mmフィルムでの上映が普通で当然字幕も無く、本作に関しては短縮版ということもあって内容が理解できたとは言い難く、ただただ巨大なモンスターによる大都市襲撃を楽しんでいたものでした。
最近になってようやくノーカットでの視聴ができ、そのストレートな展開とダイナミックな特撮に感動を新たにしました。

本作の見所はと言うともちろんレイ・ハリーハウゼンによる人形アニメーション特撮。子供の頃に頻繁にTVで放送され、繰り返し見た「アルゴ探検隊の大冒険」(1963)や「SF巨大生物の島」(1961)「恐竜100万年」(1966)、そして「シンドバッド」のシリーズ。これらの特撮を担当していたのもハリーハウゼンでした。
東宝怪獣映画のぬいぐるみ特撮とはまた違う、人形アニメならではの繊細で驚異的な動きは(どちらが優れているとかではなく)怪獣少年たちの心を掴んでいたのでした。
本作「水爆と深海の怪物」は、そのハリーハウゼンの比較的初期の作品となります。

深海に眠っていた怪物が核実験により凶暴化して大都市を襲うが、軍と科学者が協力してこれを撃退する。

なんとも単純明快で'50年代頃に山ほど作られたモンスター映画のパターンそのままです。しかし本作を凡百の同類作と異にしているのはハリーハウゼンの特撮ゆえでありましょう。
最新鋭の原子力潜水艦が未知の巨大生物に襲われる序盤から、海面に現れる巨大な触手によって次々と船が沈められていく中盤まで、物語はサスペンスフルで怪獣映画の王道であります。そしてついにサンフランシスコにやって来た怪物は金門橋に触手を絡めながら全身を現します。巨大なタコ。それも低予算の為に足が6本しかないという曰く付きのタコ怪獣です。
異形の巨大なタコが金門橋に絡みつき、これを破壊していくスペクタクルシーンの見事さ。予算不足のためでもあろうし、まだハリーハウゼンの腕が完成されてないためでもあろう、後の作品ほど洗練はされていないけれどその荒々しい動きが怪物の異質な存在感を高める効果ともなっています。

陸に上がって街の人々を襲う終盤は金門橋のシーンに比べると動きも少なくやや残念な出来ですね。科学陣の協力によって新兵器を完成させ怪物を倒すクライマックスは、ちょっと東宝特撮映画的展開でしょうか。人間を餌として食べる怪物の恐ろしさを強調していただけに、このラストには拍手喝采というところです(笑)。

ところで、この手の巨大モンスター映画では核実験を怪物を生み出す原因としている作品がやたらと多いわけですが、本作では軍の偉いさんの「またか。何でも水爆実験の責任か」なんて台詞が皮肉が効いていて面白いですね。

さてさて、こうしてレイ・ハリーハウゼンの名前が出てくると他にも語りたくなる作品がいろいろとありますね。またそこらへんも追々。

ベンベン、ベンベン・・・
の音楽でお馴染みのジョン・カーベンター監督と言えば低予算のホラー映画やSF映画の名手ですが、その作品群の中でもマイ・ベストはと言うともちろん・・・

「ザ・フォッグ」THE FOG(1979)

fog01 とある小さな港町。その町の誕生100周年の記念行事に住民たちが沸き立つ頃、やはり100年前に沈んだ船の乗組員たちの亡霊が復讐を果たすために霧と共に町へとやって来るのだった。

灯台の建つ岸壁の寒々とした風景。記念行事に沸きつつもどこか裏寂れた町。前作「ハロウィン」(1978)同様にこの画面から伝わってくる寒々感が素晴らしいのです。そして「ハロウィン」でのような残虐な殺人シーンは極力抑え、あくまでムードで怖がらせてくれる正統派の西洋怪談と言えましょう。
何故100年も前の亡霊が現れるのか、何を恨んでいるのか、それらの答えは一応は語られるものの実質的には重要なことではなく作品内ではさらりと流されます。そして映画は、ただ霧と霧の中に潜む亡霊の恐怖を紡ぎ続けます。不気味に青白い光を放ちながら岸壁を、山を「登って」いく霧。それはどこかブラッドベリの「霧笛」のようにファンタジックで、不気味な美しさに満ちています。

それにしても迫り来る霧の映像や亡霊のメイクなどは正直言って安いです。しかしその安さを逆に作品のムードとして取り込み、恐怖感を煽らせてしまうのがカーベンターが低予算の名手と呼ばれる所以でしょうか。実際「カーペンターには金を渡すな」なんてプロデューサーだか制作会社のお偉いさんだかが言ったという逸話もありますし、カーペンター自身が予算がありすぎると使い道に困ると言ったとか聞いた気がします。
低予算をアイデアでカバーする、そんな貴重な才能を持った監督でもあるのですね。
また、デビュー作「ダーク・スター」(1974)を共に制作した盟友ダン・オバノンの名を役名とした登場人物が主演のエイドリアン・バーボー(当時のカーペンターの奥さん)に何かとちょっかいを出し、亡霊にあっさりと殺されるお茶目なシーンなど、カーペンター監督が本作を楽しんで撮っているのがわかります。

「ハロウィン」で当てたカーペンター監督が気負うことなく仲間達と楽しんで作り上げた、これは小品ながら優れた恐怖の童話なのであります。

ちなみに個人的カーペンター作品ベスト3。
1.ザ・フォッグ(1979)
2.要塞警察(1976)
3.ハロウィン(1978)
次点.ダーク・スター(1974)、パラダイム(1987)

どうしても初期の作品の方が評価が高くなってしまうのですが、'80~'90年代の作品もそれぞれに愛着があります。ただ、どうも個人的にはSFが向いていないのではないかなと思ってしまうのですよね。
設定は面白いものの作品世界の広がりを描ききれなかった「ニューヨーク1997」(1981)や、人間が描けず特殊メイクの見本市にしかならなかった「遊星からの物体X」(1982)の2作に少なからず不満を感じてしまったせいだと思います。

それはそれとして上記のベスト3ですが、この内の2本までがリメイクされるという驚くべき昨今です。
「要塞警察」のリメイク、「アサルト13/要塞警察」(2005)
「ザ・フォッグ」の現在制作中と聞くリメイク、「THE FOG」
まぁどちらもオリジナルの完成度が高いだけにリメイクにさしたる期待はしていませんが、それにしてもカーペンター作品がこうも続けてリメイクされる日が来るとは・・・。ファンとしては複雑な気分ですね。

「ザ・フォッグ」鑑賞劇場記録:神戸三宮・新聞会館大劇場(廃館)

B級SFの帝王、B級ホラーの巨匠・・・その名を語られる時、とにかく「B級」という部分が強調される監督ロジャー・コーマン。しかしこの場合の「B級」は決して揶揄するような意味合いではなく、常に低予算短期間でありながら並以上の水準作品を作り続ける氏に対しての一種尊敬の念のようなものが込められていると思うのです。
そしてそんなコーマン監督が早撮りの手腕を遺憾なく発揮したのがこの・・・

「古城の亡霊」THE TERROR(1963)

terror01 部隊からはぐれたフランス人青年将校が出会った一人の美女。だが近くに住む老婆は若い女など付近には住んでいないと言う。果たしてあれは幻だったのだろうか。女の幻影を追って、青年は崖の上に建つ古城へと向かうのだった。
夜な夜なさまよい歩く美女は幻なのか、それとも亡霊なのか。古城の隠し扉の向こう、地下に隠されたものとは何か。古城の主が心に秘めた秘密とは?

古城の主に扮するのは、かの古典「フランケンシュタイン」(1933)で人造人間を演じて一躍人気スターとなったボリス・カーロフ。
奇怪な出来事に翻弄されつつも古城の謎を解き明かしていく青年将校に、無名時代のジャック・ニコルソン。

ところでこの映画の凄いところは、当初制作が予定されていたものでは無いというところなのです。
当時ロジャー・コーマン監督はエドガー・アラン・ポーの原作を次々と映画化し、好評を博していました。「アッシャー家の惨劇」(1960)「恐怖の振子」(1961)「黒猫の怨霊」(1962)「姦婦の生き埋葬」(1962)等々。これらの作品の脚本の多くをリチャード・マシスンが書いていたことも見過ごせない事実ですね。そしてポーの「大鴉」を元にしたコメディタッチの作品「忍者と悪女」(1963)を撮ったのですが、同作品に出演していたボリス・カーロフの契約期間がまだ3日ほど残っていたことでコーマンはもう1本映画を撮ろうと考えます。まぁコーマンはこういうこと度々やってます(笑)。脚本を急遽新たに用意し、「忍者と悪女」の室内セットなどを使い回し、ニコルソンを始め出演者やスタッフが駆け回って衣装や小道具を揃え、そして実に2日間でこの「古城と亡霊」を撮り上げたのでした。

たとえすでにセットやキャストが揃っていたからと言って、この映画を準備期間も含めて2日で撮ったというのは驚異です。しっかりとしたドラマ作り、切り立った崖の上に佇む古城や湿り気さえ感じられる不気味な墓場といった見事な美術と、そこには安っぽさなどは微塵も無く確かな演出力がありました。
この映画に描かれるおどろおどろしくも不気味なシーンの数々は、今の目で見るなら怖くはありません。
しかし・・・
冒頭の謎の美女との幻想的な邂逅からクライマックスの地下の巨大聖堂が雪崩れ込む海水に飲み込まれていく予想外の大スペクタクルシーンまで、この映画は実に心地良くゴシックホラーの世界に引き込んでくれたのでした。

ところでロジャー・コーマン組と言えばジェームズ・キャメロンやジョー・ダンテを始め多くの名監督やスターを輩出したことでも有名ですが、本作でも若かりし頃のフランシス・フォード・コッポラやピーター・ボグダノビッチ、ジャック・ヒルと言った面々がスタッフに加わっています。想像するまでもなく、低賃金でこき使われていたのでしょう(笑)。

余談。
本作を含めコーマン作品の多くが大蔵映画によって日本で配給されました。この大蔵映画の社長が今や伝説とも言える大蔵貢。大蔵貢は大蔵映画を立ち上げる前、倒産寸前の新東宝の社長に就任し、社員スタッフの反感を買いながらエログロ路線を推し進めて新東宝を(一時的にせよ)立て直した人物です。
映画とは何よりもまず娯楽であると、その手法は良かれ悪しかれそういう信念には共感を覚えます。そのB級娯楽指向の部分で日本のコーマンとも思える大蔵貢の、その興味深い人物像もまた語ってみたいところではあります。



さらにところでアニメ「雪の女王」、今日も良かったですね。作画はヒドかったですが(笑)。
出崎監督の切れた演出が大爆発で、不自然なほどに幸せな物語を盛り上げてくれていました。心地良いですよ。
先週の「赤い靴」についても少し。
原作のように両脚を切り落とされないのは甘いのではないかというような意見をちらほらと目にしましたが、自分の罪の身代わりに父親が命を落とすというのは自分自身が罰を受けることよりもキツいことではないかな、と私的には思えます。まぁアニメ的に残酷描写が出来ないことでの変更なんでしょうけどね。
優しい人々の心温まる幸せアニメと思って見続けている「雪の女王」ですが、こういう話がポンと投げ込まれると想像以上にショッキングですね。
まぁアンデルセン作品には他にも残酷な話はありますから、このアニメでどのように描かれるか楽しみではあります。

さて懐かし映画ですが、その第一弾に選んだのがコレというのが・・・我ながら困ったものです。

その昔、私はとても不思議に思っていることがありました。例えば藤子不二雄氏の「怪物くん」の手下に何故フランケンと呼ばれる怪物が居るのか、例えばある東宝特撮映画のタイトルは何故「フランケンシュタイン対地底怪獣」(1965)なのか(この映画自体は大好きですけどね)。
フランケンシュタインというのは人造人間を作った博士の名前であり、これらの作品に登場するモンスターをフランケンシュタインと呼称するのはとんでもない間違いなのではないか。とても不満でした。けれど日本ではあらゆるメディアで怪物の側をフランケンシュタインと呼ぶのが当たり前のようでした。
気分的にはわからないでもありませんでした。いちいち「フランケンシュタインの怪物」とか「フランケンシュタインの人造人間」とか呼ぶのは長ったらしいし、フランケンシュタインという名前が「怪物の名前っぽい」というのも原因の一つだった気がします。だとしても、子供の頃から「ドラキュラ」シリーズと共にハマープロの「フランケンシュタイン」シリーズに慣れ親しんでいた身としてはやはり不満でした。
そして思ったのは、こんな風に博士と博士の創造物の名前を混同しているのは日本くらいなものなのだろうということであり、そのことが妙に悔しく思えたのでした。

本題の「悪魔の赤ちゃん」です。
監督は安いホラーやサスペンスものを撮らせたら超一流のラリー・コーエン。この「悪魔の赤ちゃん」とそのシリーズを始めとして「空の大怪獣Q」(1982)や「マニアック・コップ」(1988)シリーズ、そのフィルモグラフィーにはB級然としたタイトルがずらりと並んでいます。けれどそこが素晴らしい。低予算で(それなりに)面白い作品を撮ってしまう自らの嗜好に忠実な一流の娯楽監督なのです。

物語は病院の手術室から始まります。今まさに赤ん坊を出産しようとしている女性。ところが彼女を囲む医者や看護婦の顔が恐怖に引きつり、何者か(まぁもちろん生まれたばかりの赤ん坊なんですけど)によって全員惨殺されてしまうのです。赤ん坊は環境汚染(かなんか)が原因で醜い奇形の怪物として生まれ落ちたのでした。病院を飛び出して街に出た赤ん坊はさらなる殺戮を繰り返します。牛乳屋のバンの荷台に潜り込んで運転手を殺すシーンなど、ビンが割れて荷台から流れ落ちる白い牛乳がドバドバと溢れる運転手の赤い血によって取って代わられる演出も楽しいところです。
やがて、当然ながら警察に追われることとなった赤ちゃんは帰巣本能(!)に従って両親の家へと逃げ込みます。醜い殺人鬼であってもおなかを痛めた可愛い我が子だと匿おうとする母親。一方父親は警察へと通報したばかりか、憎しみを込めて赤ん坊を自らの手で殺そうとするのです。

「もし赤ん坊が凶暴な殺人鬼だったらどうする?」というワンアイデアで作られた典型的なB級モンスター映画。後に大御所特殊メイクアップ・アーティストとなるリック・ベイカーの仕事など見所もありつつ、しかし全体として(面白くはあるけれど)安い映画という印象は拭えません。ではどうしてこの映画に心惹かれるのか・・・。

終盤、下水道に逃げ込んだ赤ん坊を警察と共に父親も追います。引き留めようとする妻に、彼は唐突にこう言い出すのです。
かなりうろ覚えですが・・・。
『俺は子供の頃に「フランケンシュタイン」という白黒映画を観て、その後ずっとフランケンシュタインというのは死体を継ぎ合わせて作られたあの怪物の名前だと思っていた。げれど本当は怪物を作り出した博士の名前だった』
『俺は、あの人殺しの怪物が将来俺の名前で呼ばれることに耐えられないんだ!』

おうおう! 日本と同様、アメリカでも博士と人造人間の名前は混同されていたのだ!
本作で制作、脚本、監督と大活躍のラリー・コーエン監督。おそらくコーエン監督も周りの人間が人造人間をフランケンシュタインと呼ぶことを苦々しく思うホラーマニアな少年だったのでしょう。父親の台詞はあまりに唐突なものだったけれど、よくぞ言ってくれたと胸のすく思いでした。

さらに言うならこの映画の原題「IT'S ALIVE!」は米ユニバーサル社の作った「フランケンシュタイン」(1931)において、雷の電力を受けて人造人間が蘇った瞬間にフランケンシュタイン博士が叫んだ台詞そのままです。そして本作ラスト、相手を憎みきることの出来なかった父子の情愛を描く(ある種とってつけたような感もあるものの)感動的なシーンは、結局父親たる創造主に理解されることなく燃えさかる風車小屋の中で怪物が悲しげな悲鳴を上げる「フランケンシュタイン」のラストと実に好対照をなしているのです。
この映画はコーエン監督なりの「フランケンシュタイン」へのオマージュでした。コーエン監督はこのB級モンスター映画の姿を借りて、悲哀に満ちたフランケンシュタインの怪物に安らぎの最後を与えたのです。そしてそれは、かつてのモンスター大好き少年達の心にも何とも言えぬ感動を与えたのでした。

・・・もっとも・・・冷静に考えてみると、さんざん殺戮しまくっておいて最後は感動的に締めるという展開はちょっとどうかと思わないでもないですが(笑)。

ところで・・・
この夏公開の映画、劇場版「金色のガッシュベル/メカバルカンの来襲」の予告を見ていると、メカバルカンがそっと花をティオに差し出すというシーンがありました。このシーン、「フランケンシュタイン」(1931)の怪物と幼い少女が湖畔で出会うシーンとそっくりなんですよね。何か「フランケンシュタイン」のパロディ的要素があるのでしょうか。気になります。

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